門司港レトロ
門司港レトロ地区にある外国貿易で栄えていた時代の主な建物まとめ
門司港レトロは、福岡県北九州市門司区のJR門司港駅周辺が外国貿易で栄えた時代 (19世紀後半から20世紀初頭) の建物を活用し、大正レトロ調のホテルや商業施設を開発して、新旧の建物を融合させた観光エリアです。ちなみに大正ロマンとは、大正時代(1912年〜1926年)に花開いた日本風と西洋風の様式が混じりあった文化のことです。以下は、門司港レトロ地区にある主な建物の解説です。これらの建物はJR門司港駅から徒歩10分圏内にあります。また、門司港の概要については「門司港」の項で解説しています。
JR門司港駅
JR門司港駅は、1914年(大正3年)に建築された木造2階建て、ネオ・ルネサンス様式で施されたデザインの駅舎で、1988年に駅舎としては日本初の国の重要文化財に指定されました。駅舎内には、戦時中の金属供出も免れた駅の開設当初からある青銅製の手水鉢、旧一、二等待合室を利用した高級感のある観光案内所、旧三等待合室を利用したコーヒーチェーン「スターバックス」、鹿児島本線の起点を示す「0哩(ゼロマイル)碑」などがあります。詳細については「門司港駅」の項で解説しています。
旧門司三井倶楽部
旧門司三井倶楽部は、1921年(大正10年)に三井物産の迎賓施設として建てられましたが、戦後は旧国鉄が所有。旧国鉄の民営化に伴い、旧門司三井倶楽部は、北九州市に無償譲渡されました。1990年に国の重要文化財に指定され、1994年に山あいにある地区から門司港レトロ地区に移築されました。旧門司三井倶楽部は木造2階建てで、1922年(大正11年)にはアインシュタイン博士が宿泊しました。その客室は当時のまま保存されていて、アインシュタインメモリアルルームとして展示されています。1階にはレストラン「三井倶楽部」があって、門司港のご当地グルメ「焼きカレー」やフグの会席料理などが提供されています。
大連友好記念館
20世紀前半(1945年)まで、門司港と大連との間には、大陸貿易の重要な航路があったことから、北九州市と中国・大連市は交流が盛んで、1979年に両都市は友好都市となりました。1995年、友好都市の締結15周年を記念して、1902年にロシア帝国が大連市に建てたドイツ風の建築物を友好のシンボルとして複製建築したのが「大連友好記念館」です。1階は中華料理レストラン「大連あかしあ」、2階3階は交流スペースと大連市の紹介コーナーがある観光施設です。1996年、大連市でも同じ外観の建物が「大連芸術展覧館」として跡地に複製建築されています。ちなみに、大連は昔から「東方魁城」(東方のアカシアの都)と呼ばれていて、毎年5月になると一斉にアカシアの花が咲きます。
大連友好記念館のモデルは、大連にあった旧東清鉄道汽船の事務所建物です。ロシア帝国が三国干渉によって、日本の遼東半島占領を阻止した見返りとして、1898年、ロシア帝国は清国から遼東半島の旅順・大連の租借権を獲得し、ロシア帝国が設立した東清鉄道に鉄道敷設の開発を行わせました。東清鉄道汽船はその子会社です。日露戦争以降(1905年)、旅順・大連は日本の租借地として移譲されると、日本統治時代の旧東清鉄道汽船の事務所は図書館として利用されました。「大連友好記念館」もオープン当初は図書館でした。煉瓦の茶と石材の白のコントラストが美しく、尖った三角屋根の尖塔が印象的な「大連友好記念館」は、記念撮影スポットとして人気があります。
九州鉄道記念館
1888年(明治21年)、九州初の鉄道会社として「九州鉄道会社」は設立されました。九州鉄道記念館は、九州鉄道会社の本社ビルとして1891年(明治24年)に建築された煉瓦造の2階建て、東西の長さ62m、南北12mの建物です。2003年の鉄道記念館としての開館に向けた整備工事では、屋根は金属板葺、内部を鉄骨造にするなどの大規模改修が行われましたが、煉瓦積みの壁は建築当時のままで、明治時代の煉瓦構造物の技術を伝える貴重な建物です。国の登録有形文化財に登録されています。詳細については「九州鉄道記念館」の項で解説しています。
旧大阪商船
旧大阪商船ビルは、1917年(大正6年)に大阪商船の門司支店として建築されました。オレンジ色のタイルと帯状の白い石材が調和した外装と八角形の塔屋が印象的な木造2階建ての洋館です。建築当時の大正時代(1912年~1926年)の大阪商船は、世界第8位の規模を誇る海運会社でした。この頃の門司港は、一ヶ月間に台湾、中国、インド、ヨーロッパへ60隻の客船が出航していたので、旧大阪商船ビルの1階は、外国航路の客船の待合室として利用され、乗船客で賑わっていました。建物は1991年まで使用された後は、北九州市が買い取って、1999年に国の登録有形文化財に登録されました。
現在1階には、北九州市出身の有名イラストレーター わたせせいぞう氏のギャラリーがあります。
旧門司税関
門司港は1889年(明治32年)に石炭、硫黄、米、小麦、小麦粉を扱う国の特別輸出港に指定されたので、当初、門司税関は長崎税関の出張所として設置されました。1901年(明治34年)、門司港の取引額が長崎港を上回り、大阪港に次ぐ全国第4位の日本有数の貿易港として発展したので、1909(明治42年)に門司税関が長崎税関から独立して、日本で7番目の税関として設置されました。旧門司税関庁舎は、煉瓦造り瓦葺の2階建て、焼失した門司税関の2代目の庁舎として1912年(明治45年)に建築されました。昭和初期(1927年)に西海岸に3代目の庁舎が完成するまで税関庁舎として使用され、その後は民間に売却されオフィスビルとして活用されました。戦後(1945年)は倉庫として使用されていましたが、明治時代の煉瓦造りの立派な建物であったので、門司港エリアの活性化と観光促進を目的として北九州市が購入し、建物内の修復工事も行われました。1階にはアトリウムのある広々としたエントランスホール、カフェ、門司税関の常設展示室などがあって、住民や観光客の憩いの場として利用されています。
門司電気通信レトロ館
門司電気通信レトロ館は、逓信省門司郵便局電話課庁舎として1924年(大正13年)に建築され、門司電報電話局、NTT西日本門司営業所として使用されました。門司で最初の鉄筋コンクリート造の3階建て、放物線アーチと垂直線の組み合わせが特徴的な外観で、重量がある電話交換機を多数収容できる堅牢な造りとなっています。現在営業所としては使用されてはなく、NTT西日本が北九州市の門司港レトロ事業に協力して、建物の保存と電話機や交換機の移り変わりを展示する博物館として無料公開しています。
館内では、1871年(明治4年)から使用されたモールス電信機器をはじめ、大正から昭和にかけての懐かしい電信・電話機器があって、公衆電話や携帯電話の歴史を展示するコーナーが設置されています。また、交換手が電話をつないでいた時代の「手動交換機」の体験やダイヤル式電話機の体験、本物の電鍵を打つモールス信号の体験もできます。
旧大連航路上屋
旧大連航路上屋は、1929年(昭和4年)、門司税関第1号上屋として建築された建物で、外観は、当時大流行していたアールデコ調の幾何学模様を取り入れた装飾デザインで纏められています。建物内では、港や客船などの海事資料の展示、懐かしい映画や芸能資料を集めた展示室「松永文庫」も併設しています。ちなみに建物の名前の由来は、当時、門司税関1号上屋は、大連やヨーロッパなどと結ぶ約40航路が就航する国際ターミナルでしたが、大連航路は特に多かったことからいつしか「大連航路上屋」と呼ばれるようになりました。
ところで、門司港は、旧門司税関がある第一船溜まりを中心に発展しましたが、その施設だけでは手狭になったこともあって、1932年(昭和7年)に西海岸に新しい埠頭を建設しました。それに伴い、門司税関は第一船溜まりから西海岸へ移転して、1927年(昭和2)年に鉄筋コンクリート造5階建ての新庁舎が完成して、次いで1929年(昭和4年)、輸出入貨物の一時保管や荷捌き、税関手続きなどを行うための門司税関第1号上屋が完成しました。
門司税関1号上屋は、2階建ての旅客ターミナルと平屋建ての倉庫から構成されています。 上屋の敷地には係船柱が残されていますが、当時は門司港西海岸の岸壁が上屋の目の前にあり、船が上屋に接岸できました。乗船客は、1階で手荷物検査などの出国検査を済ませ、2階で船の出発を待っていました。
その後、取引量の増加に伴い、1938年(昭和13年)に上屋をさらに一棟増築。大陸航路は活況を呈していましたが、終戦(1945年)により航路は断絶します。1950年(昭和25年)の朝鮮戦争が勃発した時、上屋はアメリカ軍により接収され、1972年(昭和47年)に返還。返還後は門司税関の仮庁舎や公共倉庫として2008年まで利用されていました。近年では老朽化が顕著な状態になっていたので、門司港レトロ事業の一環として、北九州市が買い取って観光施設に再利用することを決め、修復工事を経て、2013年に「旧大連航路上屋」として公開しました。
門司港レトロ地区までのアクセス
羽田空港(東京)から北九州空港まで約1時間50分。北九州空港からJR小倉駅まで西鉄バスで約35分。
JR新大阪駅からJR小倉駅まで新幹線で約2時間20分。
JR小倉駅から鹿児島本線(門司港駅行き)で約15分、JR門司港駅下車。
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