岐阜県関ケ原町の観光スポット
関ヶ原は672年と1600年の2つの「天下分け目の戦い」が行われた場所です。
岐阜県関ケ原町は、二度の「天下分け目の戦い」が繰り広げられた地です。その戦いの一つは、「大化の改新」として知られる政治改革を行った天智天皇の弟「大海人皇子」と天智天皇の息子「大友皇子」が皇位継承を巡って激戦が繰り広げられた672年の「壬申の乱」です。もう一つは、石田三成が率いる西軍と徳川家康が率いる東軍によって繰り広げられた戦国時代最大といわれる1600年の「関ヶ原の戦い」です。
関ケ原は「東日本」と「西日本」の境界線
関ヶ原の「関」とは、関所を意味していて、壬申の乱に勝利した大海人皇子(天武天皇)が都を守るために、673年に「不破の道」(東山道、後の中山道)に設置した「不破関」のことです。不破関(跡)は、不破関資料館から中山道を挟んだ場所にあります。不破関は、東海道の鈴鹿関(三重県)、北陸道の愛発関(福井県)とともに古代三関のひとつですが、交通の妨げになるとして789年に三関とも廃止されています。(三関の廃止後も江戸時代(17世紀)まで非常時には閉鎖(固関)が行われました。810年、愛発関を廃止して逢坂関(滋賀県)を設置しました)
当時の畿内(奈良県、京都府、大阪府)では、三関(不破関、鈴鹿関、愛発関)の東側の地域を「関東」*と呼んでいましたが、現在、この三関を境に「東日本」「西日本」に分けられています。(日本の東西区分は複数あって、日本列島の地質や構造、歴史、地理、文化などによって境界線が若干異なります)
*「関東」に対する「関西」は、不破関、鈴鹿関、愛発関または逢坂関の西側の地域のことです。行政区分ではないので、その範囲は曖昧で、西日本を広く指す場合もあります。明治時代(19世紀)、御所(皇居)が東京に移転した以降、「関西」は「畿内」「上方」に代わる表現として普及しました。
ちなみに、8世紀から12世紀頃にかけて東北地方には、蝦夷(えみし/大和朝廷に抵抗していた人々)の南下を阻み、物資の往来を取り締まるために「念珠関(ねずがせき)」(山形県)、「白河関(しらかわのせき)」(福島県)、「勿来関(なこそのせき)」(福島県)の関所が設置されて「奥羽三関(奥州古代三関)」と呼ばれていました。東北地方は「東日本」に位置しますが、気象や歴史地理学などでは、この奥羽三関の北側の地域を「北日本」として分けています。
関ケ原町の見どころ
桃配山
壬申の乱の際、桃配山に近い見晴らしの良い丘に大海人皇子は行宮*(野上行宮)を構えました。桃配山には、大海人皇子が兵士たちに山桃を配って大友皇子に勝利したという逸話があって、名前の由来にもなっています。徳川家康はその縁起を担いで「関ヶ原の戦い」の際、桃配山に最初の陣を構えました。
*行宮とは、天皇の行幸のときに旅先に設けた一時的な宮殿のこと。
自害峰の三本杉
「自害峰の三本杉」は不破関資料館の近くにあります。自害峰は、壬申の乱で敗れ、自害した大友皇子の頭が葬られていて、三本杉がそのしるしと伝えられています。
大海人皇子に追い詰められた大友皇子は、滋賀県大津市の長等山で自害しました。大海人皇子側の武将によって大友皇子の頭が野上行宮に運ばれて、首実検の後、地元の人々が貰い受けて葬られたと伝えられています。
関ケ原古戦場
関ケ原では、1600年に徳川家康を大将とする東軍8万人と石田三成を中心とする反徳川勢力の西軍9万人が繰り広げた「合戦」の地です。この「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康が天下を握ったことから「天下分け目の戦い」といわれています。「決戦地」「石田三成の陣跡」など、古戦場の史跡がたくさん残っています。関ヶ原の戦いの歴史を学びたい人は「岐阜関ケ原古戦場記念館」がおすすめです。
関ケ原ウォーランド
「関ケ原ウォーランド」は、関ヶ原の戦いの様子を3万㎡の敷地に200体以上のコンクリート像を使って、史実に基づきながらもユーモラスに再現されたテーマパークです。
岐阜関ケ原古戦場記念館へのアクセス
東京から
JR東京駅からJR名古屋駅まで東海道新幹線で約2時間。JR名古屋駅で乗り換え、JR名古屋駅からJR関ケ原駅まで約50分。
大阪から
JR新大阪駅からJR米原駅まで東海道新幹線で約30分。JR米原駅でJR東海道本線新快速に乗り換えて、JR関ケ原駅まで約20分。
JR関ケ原駅下車、徒歩約10分。
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