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ホーム > トラベルマガジン > 岐阜県 > [関ヶ原の戦い]関ヶ原で参戦した武将たちのエピソードをまとめてみた。

関ヶ原の戦い 武将(宇喜多秀家・小早川秀秋・石田三成・大谷吉継・島左近・島津義弘・黒田長政・細川忠興・藤堂高虎・徳川家康・福島正則・本多忠勝)のイラスト

[関ヶ原の戦い]関ヶ原で参戦した武将たちのエピソードをまとめてみた。

2022/03/01

 

岐阜県関ケ原町は、1600年9月15日、徳川家康を総大将とする東軍と石田三成を中心とする西軍が天下を争った「合戦」の地です。「関ヶ原の戦い」は、開戦から6時間で決着。徳川家康が率いる東軍が大勝して、その結果、豊臣家は65万石の大名に転落。徳川家康の政権(徳川幕府)が確立しました。関ケ原町には、関ヶ原の戦いにまつわる歴史スポットや観光スポットなど、見どころがたくさんあります。

関ヶ原の戦い布陣図

関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉亡き後、天下を狙う徳川家康の勢力(東軍)と、秀吉の子・豊臣秀頼を立てる石田三成ら反徳川勢力(西軍)によって勃発した派閥争いの戦いです。西軍は総勢9万人、東軍は総勢8万人が関ヶ原に陣を構え、両軍双方合わせて6000人から8000人の戦死者が出たといわれています。

史蹟 関ヶ原古戦場 決戦地のイラスト

関ヶ原の戦いの序盤では、西軍優勢で展開しますが、東軍に内通していた小早川秀秋の寝返りによって東軍が逆転。西軍の諸将が敗走する中、関ヶ原の戦いで最大級の激戦が繰り広げられたのが、関ヶ原古戦場の「決戦地」です。「決戦地」には、「史蹟 関ヶ原古戦場 決戦地」と記された石碑が立ち、徳川家と石田家の家紋が入った旗が掲げられています。

史蹟 関ヶ原古戦場 大谷(吉隆)吉継の墓のイラスト

石田三成の盟友である大谷吉継は、小早川秀秋の不穏な動きを察知して、松尾山の真正面に陣を構えました。予想どおり、小早川秀秋は東軍に寝返り、小早川秀秋隊(兵15000人)の襲撃を受けた大谷吉継隊(兵600人)は迎撃しますが、小早川秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂安治隊ら4隊(兵4200人)も寝返って、三方から攻められた大谷吉継隊は壊滅。大谷吉継は自刃しました。らい病を煩っていた大谷吉継は、自刃する前に側近の湯浅五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と遺言しています。湯浅五助が大谷吉継の首を埋め終わったときに、藤堂高刑(藤堂高虎の甥)に発見されます。湯浅五助が藤堂高刑に討ち取られる際、「主人の首をここに埋めたことを秘して欲しい」と、自分の首と引き換えに大谷吉継の名誉を守ろうとしました。湯浅五助の忠義に感動した藤堂高刑は、徳川家康に詰問されても決して大谷吉継の首の在り処を答えませんでした。その後、藤堂家によって大谷吉継の墓と湯淺五助の墓が建立されました。

関ヶ原 松尾山 小早川秀秋陣跡のイラスト

小早川秀秋は松尾山(標高293m)に布陣しました。小早川秀秋の陣は、土塁や堀などの遺構が残る南北朝時代(15世紀頃)の山城を利用した陣地です。松尾山山頂から関ヶ原古戦場が一望できます。合戦の序盤、西軍有利に戦況が進展する中、小早川秀秋は傍観していました。徳川家康は傍観し続ける小早川秀秋の陣に鉄砲を撃ち込み、小早川秀秋に西軍を攻撃するよう促したというエピソードはとても有名です。

ちなみに、小早川秀秋は豊臣秀吉の正室・北政所の甥にあたりますが、松尾山に着陣した時点では、東軍西軍どちらに付くか明確にしていませんでした。石田三成は、まだ幼い豊臣秀頼が成長するまでの期間、小早川秀秋に「関白」(公家の最高位、天皇を補佐する官職)の就任を打診して西軍に取り込もうとしましたが、小早川秀秋が東軍に寝返った理由として、

  • 朝鮮出兵時の小早川秀秋の行動を石田三成から批判されて、石田三成の讒言により、筑前筑後(現・福岡県)30万石から越前(現・福井県)15万石に転封させられ、石田三成を恨んでいた。
  • 豊臣秀吉の亡き後、小早川秀秋の旧領地30万石に復領させてくれた徳川家康に対して恩義があった。
  • 北政所から徳川家康に味方するように勧められていた。

などがあげられます。

桃配山 史蹟 関ヶ原古戦場 徳川家康最初陣地のイラスト

合戦の早朝、徳川家康は美濃赤坂から桃配山に兵を移動させて、桃配山の中腹に陣(徳川家康最初の陣)を敷きました。「桃配山」の名前の由来は、壬申の乱(672年)の時、村人から山桃が献上された大海人皇子は、山桃がとても美味しかったので、兵士の士気を上げようと山桃を配ったという故事から名づけられました。徳川家康は縁起を担いで、桃配山に陣を敷いたといわれていて、合戦時に徳川家康が使用したと伝わる腰掛石が残っています。

関ヶ原 笹尾山 石田三成の陣地のイラスト

石田三成は「決戦地」の北西に位置する笹尾山(標高200m)に布陣しました。石田三成の陣跡には、敵の攻撃から防御するために設けられた「竹矢来・馬防柵」(竹や丸太で作った囲い)が復元されています。合戦では石田三成は、島左近を竹矢来の前に配置して山頂で指揮を執ったと言われています。序盤では島左近隊は善戦しますが、黒田長政隊の鉄砲隊に横合いから銃撃されて負傷します。その後、小早川秀秋の寝返りを機に、西軍は総崩となって次々に敗走すると石田三成も伊吹山方面へ逃れました。島左近は、再び黒田長政隊に突撃して、敵の銃撃により討ち死にしました。

関ヶ原 南宮山 毛利秀元の陣地(宰相殿の空弁当)のイラスト

毛利秀元は西軍の総大将となった毛利輝元の名代として毛利軍を指揮しました。毛利軍は桃配山の徳川家康本陣の背後にある南宮山(標高419m)に布陣します。毛利軍は南宮山を降りて徳川軍の背後から攻撃するつもりでしたが、先鋒隊として前面に陣取っていた毛利一族の吉川広家隊にさえぎられて進軍することができず、長束正家隊らの出撃要請にも毛利秀元は「霧が濃い」「弁当を食べている」など言い訳するばかりで、結局のところ南宮山に布陣していた西軍(毛利秀元本陣の兵15000人、吉川広家隊の兵3000人、長束正家隊の兵1500人、安国寺恵瓊隊の兵1800人、長宗我部盛親隊の兵6600人)は、東軍と戦うことなく合戦は終了しました。ちなみに、吉川広家は毛利家の領地保全などを求めて東軍と内通していて、このエピソードは後に「宰相殿の空弁当」と語り継がれるようになりました。

関ヶ原 島津義弘の陣地(島津の退き口・捨て奸)のイラスト

神明神社の裏手に島津義弘陣跡の石碑があります。小早川秀秋の寝返り後、西軍は総崩れとなって西軍の各部隊が次々と敗走する中、島津義弘隊は300人程に減っていた兵数で、敢えて福島正則隊に正面突破。後に「島津の退き口(のきぐち)」、通称「捨て奸(すてがまり)」として語り継がれる戦法を用いて伊勢街道へと駆け抜け、養老山地を経て堺に至り、さらに海路を使って薩摩(現・鹿児島県)へ帰ることができました。

「捨て奸」とは、島津義弘を逃がすため、兵士数名で押し寄せる敵軍と死ぬまで戦って足止めさせ、その足止め隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して島津義弘を逃げ切らせるという戦法です。

この戦法によって、島津義弘隊は甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳が討ち死にし、執拗に追撃した徳川軍の松平忠吉と井伊直政は重傷、本多忠勝は落馬しました。徳川家康から追撃中止の命令が下されて合戦は終了。生きて薩摩に帰った島津義弘隊は80名程度だったと言われています。

関ヶ原 徳川家康最後の陣地(床几場)首実検のイラスト

JR関ケ原駅の近く、陣場野公園に「徳川家康最後の陣跡(床几場)」の石碑があります。合戦当日の昼頃、戦況を把握するために徳川家康は本陣を桃配山から関ヶ原の中央部、石田三成の陣がある笹尾山の正面(直線距離で約800m)に移動しました。この場所から松尾山に布陣する小早川秀秋に鉄砲で威嚇したと言われています。合戦後は、この場所で討ち取ってきた敵の首級を実検しました。

岐阜関ケ原古戦場記念館 展望室のイラスト

関ヶ原の戦いの歴史をもっと学びたい人は体験型ミュージアムの「岐阜関ケ原古戦場記念館」に訪館するのがおすすめです。5階建ての記念館の最上階には360度全面ガラス張りの展望室があって、現在の関ヶ原が一望できます。

 

この記事を書いた人

どもども

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