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三保松原と富士山と天女のイラスト

三保松原(羽衣伝説)

2021/09/16

三保松原で行われる薪能は、実はフランス人女性を讃える芸能祭だった!?日本人なら一度は行っておきたい。美しい富士山を眺めながら三保松原を散策しましょう。

三保松原(みほのまつばら)は、静岡県静岡市の三保半島の東側に広がる景勝地です。総延長7km、約5万本の松林が茂る海辺と富士山の美しい風景は、平安時代からたくさんの和歌や俳句に詠まれ、江戸時代では浮世絵にも描かれています。

大正時代(1922年)には、京都府天橋立とともに日本初の国の名勝に指定されました。2013年、ユネスコの世界文化遺産「富士山」の構成資産のひとつとして、三保松原が登録されました。

三保半島の成り立ち(砂嘴の形成)のイラスト図

三保半島は、安倍川から海へ流れ出た土砂と波で削られ出た日本平(有度山)の土砂が、沿岸流によって運ばれてできた砂洲(砂嘴)です。

江戸時代の三保松原の浮世絵イラスト

江戸時代の三保松原は、完全な陸地になっていましたが、道が整備されてなかったので、御穂神社への参詣は船で渡っていました。

三保松原の羽衣伝説(天女と伯良)のイラスト

三保松原には、天女が舞い降りたという「羽衣伝説」が伝わっています。日本各地にたくさんの「羽衣伝説」が伝わっていますが、三保松原の「羽衣伝説」が特に有名なのは、室町時代の能楽者、世阿弥の能楽作品『羽衣』の影響が大きいです。

春の朝、三保松原に暮らす漁師・伯良が釣りに出た時、松の枝に掛かった美しい衣を見つけました。家に持ち帰ろうとした伯良に、天女が現れて羽衣を返して欲しいと懇願します。伯良は、はじめは聞き入れず、羽衣を返そうとはしませんでしたが、天女の舞を見せてもらう代わりに羽衣を返すことにしました。羽衣を纏った天女は、春の三保松原を讃嘆しながら舞い続けて、やがて富士山の高嶺に舞い上がり、天空の中に消えていきました。

三保松原の羽衣の松に天下る三穂津彦命と三穂津姫命のイラスト

三保松原の一角に「羽衣の松」と呼ばれる樹齢200年の古松があります。「羽衣の松」は御穂神社のご神体で、祭神の三穂津彦命(大国主命)と三穂津姫命が降臨する時の依代とされています。現在の「羽衣の松」は三代目です。初代の「羽衣の松」は、1707年の富士山の大噴火で海中に沈んだと伝えられ、二代目の「羽衣の松」は、樹齢650年の大きな老松でしたが、立ち枯れが進んでいたので、2010年に三代目と交代しました。付近には「神の道」と呼ばれる御穂神社までの参道があって、500mの松並木が続きます。

三保松原の薪能(羽衣まつり)のイラスト

毎年10月の三保松原の「羽衣まつり」では、特設舞台が設置されて薪能が披露されます。「羽衣まつり」は、「羽衣伝説」に魅せられたフランスの舞踊家、エレーヌ・ジュグラリス(Elene Giuglaris)夫人(1916年〜1951年)が、第二次世界大戦後間もないフランスで、日本の伝統芸能の「能」を紹介してくれた功績を讃えるためのイベントです。

エレーヌ・ジュグラリス夫人の羽衣伝説のイラスト

当時のフランスでは能に関する資料が少なく、独学での研究は困難を極めましたが、エレーヌ夫人は、謡曲『羽衣』を手探りでフランス語に翻訳します。衣装の制作や楽器探しなどに奔走しながら一座を結成して、1949年、独自の創作舞踊「HAGOROMO」をフランスで上演しました。初演は大成功で終わりましたが、その3か月後の公演中に舞台で倒れて病院へ運ばれました。白血病でした。そして2年後、35歳の若さで亡くなりました。

三保松原「エレーヌの碑(羽衣の碑)」のイラスト

1951年、夫のマルセル・ジュグラリス(Marcel Giuglaris)氏は、エレーヌ夫人の遺髪と自作の舞踊衣装を携えて三保松原を訪れました。そして、エレーヌ夫人がどれだけ『羽衣』を愛していたのかを語りました。感動した三保松原の人々は、「羽衣の松」の近くに「エレーヌの碑(羽衣の碑)」を建設しました。

 

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どもども

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