歴史の教科書に出てくる長崎の「出島」の現在は周囲が埋められて陸続きになっていた件
長崎県の「出島」は、江戸時代の鎖国政策の中で1636年に造られた人工島です。人工島は扇の形をしていて、総面積は約1500㎡、東京ドームの約3分の1の大きさです。工事期間は約2年、総工費は現在の貨幣価値で約4億円です。江戸幕府が長崎の商人たちに命じて造らせました。島の形について、3代将軍・徳川家光に伺いを立てたところ、自らの扇を示したという逸話が残っています。
1549年、宣教師のザビエルがスペインから来日して以来、西日本を中心にキリスト教が拡がりました。布教活動と貿易は一体だったので、キリスト教に改宗する「キリシタン大名」も現れました。キリシタン大名は宣教師がもたらす貿易で大きな利益をあげていました。
鎖国政策の最大の目的は、キリスト教の禁止です。キリスト教の新しい思想によって幕府の政治体制が否定されること、キリシタン大名が貿易で大きな利益をあげていたことなどの警戒感から、江戸幕府はスペイン船やポルトガル船の来航を禁止して、幕府による貿易の独占(貿易統制)を行いたいと考えました。
この頃、オランダ船も来航していましたが、貿易のみで布教活動はしませんでした。むしろオランダは、スペインやポルトガルの布教活動の背景に日本侵略を企てていることを幕府に吹聴していたので、1624年、幕府はスペイン船の来航を禁止しました。
ポルトガル船は、日本に不可欠な生糸を取り扱っていたので、来航を禁止することができませんでした。ポルトガル人を「出島」に住まわせ、島の出入りを管理しながら貿易を続けました。長崎の商人たちは毎年ポルトガル商人から年間1億円以上の土地の使用料を支払ってもらっていました。
しかし、1637年に長崎の島原と天草でキリシタン農民による一揆が起こると、江戸幕府とポルトガルとの関係が悪化して、1639年、ポルトガル船の来航禁止とポルトガル人の国外追放が行われました。
ポルトガル人がいなくなった出島は、人工島建設の資金を回収するために、1641年、長崎の平戸にあったオランダ商館を出島に移しました。ポルトガル船を来航禁止にした1639年から、函館港、横浜港、新潟港、神戸港、長崎港の5大港を外国に開放した1859年までの220年間、オランダは日本との貿易を独占して莫大な利益を得ました。
現在の出島は周囲を埋め立てて陸続きになったので、扇形の島であった頃の面影はないですが、シーボルトのお抱え絵師が1820年頃の出島を描いたとされる絵図を参考にして15分の1の模型が公開されています。
2017年、江戸時代と同じように出島と対岸の江戸町の間に130年ぶりに橋が架かりました。19世紀の初め、出島には住居や料理店、蔵、番所など49棟の建物がありました。現在そのうちの16棟を復元しました。当時の街並みなどが再現されていてとても面白いです。
長崎市では、2050年までに水に囲まれていた頃の出島の完全復元を目指しています。
出島までのアクセス
羽田空港から長崎空港まで約1時間50分。
伊丹空港から長崎空港まで約1時間20分。
長崎空港からJR長崎駅まで空港リムジンバスで約45分。長崎電軌長崎駅前から長崎電軌出島まで路面電車で約5分。長崎電軌出島下車、徒歩約5分。
JR博多駅からJR武雄温泉駅までJR鹿児島本線(特急)で約1時間。JR武雄温泉駅で西九州新幹線に乗り換えてJR長崎駅まで約30分。