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「あ!お城が燃えている!」 鶴ヶ城 白虎隊

「あ!お城が燃えている!」なぜ白虎隊は燃えてもいない鶴ヶ城を燃えてしまったと勘違いしたのか?

2020/11/29

 

福島県会津若松市にある「鶴ヶ城」は全国でも珍しい赤瓦の天守閣を持つ城です。正式には「若松城」ですが、会津の人々は「鶴ヶ城」と呼んでいます。

鶴ヶ城の歴代城主の家紋(葦名・伊達・蒲生・上杉・加藤・保科・松平)

鶴ヶ城は1384年に葦名(あしな)氏が黒川城として築いたのがはじまりです。1589年に伊達政宗が葦名氏を討って会津を支配しますが、翌年豊臣秀吉によって会津は没収されてしまい、織田信長の娘婿である蒲生氏郷(がもううじさと)が入封しました。蒲生氏郷は黒川城を大改修して「鶴ヶ城」と改め、地名も「若松」と名付けました。その後、上杉景勝、加藤氏と城主はたびたび代わりますが、1643年に江戸幕府3代将軍・徳川家光の異母弟である保科正之が入封します。保科家の会津藩は、3代藩主の正容(まさたか)の時に松平姓と三つ葉葵の紋の使用が許されました。

戊辰戦争(1868年)では、会津藩は旧幕府軍として薩摩藩、長州藩などの新政府軍と戦いました。

9代藩主の容保(たかもり)の時に勃発した戊辰戦争(1868年)では、旧幕府軍として薩摩藩、長州藩などの新政府軍と戦いますが、会津藩は激戦の末、降伏しました。

鶴ヶ城は1874年に廃城となって、現在は「鶴ヶ城公園」として整備されています。

1874年、鶴ヶ城は廃城となって、天守閣をはじめとする建物はすべて取り壊されました。現在の天守閣は1965年に復元されたものです。城跡は国の史跡に指定されていて、「鶴ヶ城公園」として整備されています。

鶴ヶ城の天守閣の内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されています。

天守閣の内部は「若松城天守閣郷土博物館」として公開されています。

鶴ヶ城の本丸の一角に「麟閣」と呼ばれる茶室があります。「麟閣」は千利休の子・少庵が建てたと伝えられています。

鶴ヶ城の本丸の一角に「麟閣」と呼ばれる茶室があります。千利休が豊臣秀吉の怒りに触れて切腹を命じられた時、蒲生氏郷は千利休の子・少庵を会津にかくまいました。「麟閣」は少庵が建てたと伝えられています。戊辰戦争の後、鶴ヶ城の取り壊しの時に「麟閣」は一時城外に移築されましたが、1990年に鶴ヶ城内の元あった場所に移築復元されました。

鶴ヶ城内では定期的に大茶会が開催されています。

鶴ヶ城内では定期的に大茶会が開催されています

鶴ヶ城 保科氏が庭の一部で薬草を栽培したのが「御薬園」の名前の由来です。大名庭園で国の名勝に指定されています。

保科氏が庭の一部で薬草を栽培したのが「御薬園(おやくえん)」の名前の由来です。江戸時代の代表的な大名型日本庭園で、国の名勝にも指定されています。戊辰戦争の時、「御薬園」は新政府軍の療養所として使われたので、戦火に巻き込まれずに往時の姿を今に伝えています。鶴ヶ城から徒歩15分程度で行けます。

戊辰戦争の時、白虎隊が鶴ヶ城が落城したと勘違いして自刃した飯盛山は、鶴ヶ城から車で10分にところにあります。

戊辰戦争の時、会津藩の16、17歳の少年武士で編成された白虎隊は、飯盛山から鶴ヶ城周辺の武家屋敷が燃えているのを城が落城したと勘違いして、20人の少年武士は絶望のあまり飯盛山で自刃しました。鶴ヶ城から飯盛山まで車で10分程度です。

 

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どもども

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